ご先祖の行方 ~ つきBONのブログより
盆を迎える。墓参に赴く人も多かろう。この時期コンビニにもしきびが並べられていたりする。わが家も今回は長男がその息子を連れて参ってくれた。あと半世紀は墓守も大丈夫そうである。

 さて少子化や過疎化に伴って先祖代々の墓に詣でる人がどんどん減っているそうである。無縁仏となり関係者に連絡が取れない場合、自治体が合葬したり墓地を更地として販売するというケースも多いと聞く。ペット霊園は繁盛しているのにこんなことでいいのか。

 人は死後どうなるかは各宗教で解釈がまちまちであるが、素朴な日本人の信仰からいうと一定期間は近隣にとどまり、その後山に帰っていくという。また神道では四つの御霊に別れ、そのうち荒魂(あらみたま)は墓の周辺にとどまると聞く。一般的な仏教では死後49日を経て行き先が決まり、輪廻転生するらしい。

 何がどうなっているのか追体験したわけではないのでよく分からない。しかし、死後も人は完全に消滅するのではなく、魂魄だか霊だかになって墓や肉親の付近に存在している、というのが生きている側からの共通認識であろう。「草葉の陰で見守っている」という体温を伴ったまなざしこそが日本人の心情の基底音を培ってきた。
 
 家庭にある仏壇や神棚、墳墓というものはそういう生きてある者と亡くなった者とを結ぶ交点であり、依り代(よりしろ)である。そこへ行って手を合わせれば生前の面影が偲ばれ肉声が蘇る。近況を報告したり季節の果物を供えたり、ささやかな願いを込めることによって生者と死者は交流してきたのである。祖先の目を日常的に意識することは人々の背筋を正す倫理の要ともなってきた。

 先祖への祀りが絶える、ということはそういった幽冥境を異にする出入り口が途絶えてしまうことを意味する。これは実はゆゆしき事態ではないのだろうか。生きている側から言えば、「死者の目線」を意識することがなくなる、ということである。それは坂道を転落するような速さで現世至上主義に結びつき、人生の陰影と奥行きをわきまえない生き方に直結する。「生きている間が花よ。死んだらハイおしまい」という価値観がいかに人生をスポイルするかは推して知るべしであろう。

 死者の側からはもっと深刻なのではないか。死後しばらくは参ってくれる係累もいよう。しかし、その後はどんどんデクレシェンドし、やがて誰もこなくなってしまうのである。墓も雑草に埋もれよう。むろん独身のまま一生を終えたとか友人を持たなかったなどという「本人のせい」の部分もあろうが、これでは浮かばれない。

 昔マガジンの「うしろの百太郎」で読んだが、人間には守護霊というのがとりついているらしい。ふつうはその人の祖先の一人(?)であり、生涯替わることなく高い霊力で子孫を護り続けるという。そして人の一生の幸不幸の三分の一はその高級霊の導き如何によるともいう。

 これも考え方によってはオカルトな話なので本当かどうかは知らない。しかし、私たちは(科学では証明できなくても)しっかり先祖を祀り供養を怠らないという生き方が子孫に善果をもたらしてくれる、という因果律を何となく体験的に納得している。そしてそれはおそらく正しい。私自身、死んでいてもおかしくないケースを奇跡的に救われた体験を何度もしている。

 数年前に思い立って家系図を作ったことがあるが、わずか150年さかのぼっただけでもずいぶん多くの先祖がいたことがわかる。自らが生まれたいわば根っこの部分に対する関心、そして感謝というものが人生のベースになくてはならないのではないか。こう言っては失礼に当たるかも知れないが、やはり子孫につながない、という生き方はそれだけで人生の本道を外しているのではないか、と私には思えてならないのである。

2017/08/13(日)
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